
当寺は、今から800有余年前の建久年間(1190〜99)に、
新田大炊助義重公(義貞公の祖)が、太田金山の鬼門除けに創立し、開山は鎮如法印である。
境内に蓮池があったことから青蓮院と言った。
ところが、行基作の観自在菩薩を安置し、後、徳川家康公から御朱印50石を賜ったとき、誤って正蓮寺と記入されてしまって以来、青蓮院を正蓮寺というようになった。
万治3年(1660)3月22日火災にあい、堂宇の全てを焼失。当時の本尊の所在も判明しない。 寛文10年(1670)7月、15世良範が堂宇を再建し、その後本尊を大日如来とした。
その頃のこと。ある時、一人の樵夫が寺の東山で枯木を拾い、その束を背負って帰ろうとしたところ磐石のように重く、到底担ぐことが出来ない。樵夫が怪しんでよく見ると、
観世音の霊像が真赤な光を放って薪の中にあった。これは観音様が往年の火災の際に難を逃れて東山に飛来したものに違いない、という話が伝えられ、このお像は雉ヶ入の当時の観音堂に安置されたが現在は所在不明である。
新田大炊助義重公(義貞公の祖)が、太田金山の鬼門除けに創立し、開山は鎮如法印である。
境内に蓮池があったことから青蓮院と言った。
ところが、行基作の観自在菩薩を安置し、後、徳川家康公から御朱印50石を賜ったとき、誤って正蓮寺と記入されてしまって以来、青蓮院を正蓮寺というようになった。
万治3年(1660)3月22日火災にあい、堂宇の全てを焼失。当時の本尊の所在も判明しない。 寛文10年(1670)7月、15世良範が堂宇を再建し、その後本尊を大日如来とした。
その頃のこと。ある時、一人の樵夫が寺の東山で枯木を拾い、その束を背負って帰ろうとしたところ磐石のように重く、到底担ぐことが出来ない。樵夫が怪しんでよく見ると、
観世音の霊像が真赤な光を放って薪の中にあった。これは観音様が往年の火災の際に難を逃れて東山に飛来したものに違いない、という話が伝えられ、このお像は雉ヶ入の当時の観音堂に安置されたが現在は所在不明である。






